《最新情報》

ぼくの著書『お父さん、牛になる』が、福音館書店より発売中。
Amazonはこちらです。
お父さんが牛になる話。ささめやゆきさんの絵が良すぎる。

『お父さん、牛になる』おかげさまで重版かかりました!
執筆、出演依頼等は随時受付中。メールフォームからどうぞ。


2015年06月01日

舞台版『お父さん、牛になる』千秋楽を終えて

原作者のぼくが脚本としてガッツリ携わりました、劇団仲間企画公演『お父さん、牛になる』ですが、昨日で4日間全6ステージ、無事に終演となりました。ご来場くださった方々、告知をリツイート等してくださった方々、公演をお気にかけてくださった方々へ、まずは心よりの御礼を申し上げます。

ぼくは全公演を毎日1回、計4ステ観させていただきましたが、どれも満員御礼でたいへん嬉しかったです。それは原作者としての喜びであると同時に、劇作家としての喜びでもありました。自分の書いたセリフが俳優によって息を吹き込まれるさま、物語世界が見事にビジュアル化された舞台空間、それに見入るお客さんの空気。おとなのお客さんはもちろん、劇団仲間はそもそも児童向けの芝居を主戦場に置かれてるだけあって、小学生のお客さんも多く観てくれたのですが、ちらちら横目で見るかぎり、すごく集中して楽しんでくれているようすでホッとしました。

まずはこの公演の企画者でもある、演出の木内希さんに感謝。木内さんはほんとうに原作を愛してくれていて、だからぼくも安心して「物語の核や言葉のニュアンスさえ沿っていればオッケーなので、よくなるぶんにはどんどん台本アレンジしてください」とすっきりおまかせできたし、実際、それが間違っていなかったことは、できあがったものにはっきり表れていました。こちらの意図を的確に汲みつつ、それをよりおもしろく効果的に立ち上がらせてもらえて、作者としては感無量。回を重ねるごとにさらにブラッシュアップされていき、観るたびに新鮮な味わいを得られるような舞台に仕上がっていたと思います。

キャストのみなさんもそれぞれよかった。鈴木さんは翻弄される主人公を、ちょっとヒネたところがあるけどまっすぐなキャラとして瑞々しく演じてくれたし、お姉ちゃん役の浦山さんは、感情がラストへ至るまでにだんだん変わっていくさまがとてもうまく表現されていて、「これはこの子の物語だったのかもしれないなあ」とこちらに思わせる絶妙な演技でした。いちばんセリフが多くてたいへんなお母さんを演じた浜谷さんは、緩急や言い回しの技術はもちろん、立ちふるまいの細部までみごとに体現化してくれて作者のぼくも大納得。藤岡役の鎌田さんは、冒頭の見切れ役や牛の脚役も兼ねつつほんとうにお疲れ様さまで、コメディリリーフとして、もはやそこにいるだけでニヤニヤ笑わせてくれる存在感。ウザ川役の小野さんは(こう言っていいのかわからないけれど)ほんとうにぴったりのハマり役! 一挙手一投足がぜんぶおもしろくて、完全にその場を持って行く強烈さが最高。そしておばあちゃん役の二瓶さんは、さすがの貫禄でほんとうに完璧。まったくもってぼくが思い描いていたそのままのおばあちゃんがそこにいたことにおどろきました。

牛の脚も演じてくれた制作の佐々木さんをはじめ、美術・音響・照明・小道具や装置などスタッフのみなさん、それぞれがいい仕事をしてくださってました。美術は具象と中小の兼ね合いがベストマッチングだったし、とくに牛! あの牛の造形は筆舌に尽くしがたいほどすばらしくて、はじめて観た初日、あの存在感のある「牛」がふすまの向こうからドンと登場したのを目にした瞬間、ぼくは心のなかでこの舞台の成功をなかば確信したほどです。あれはほんとうによかったなあ。

そんなわけで、もちろん感想は人それぞれですが、少なくともぼくは単純に一観客としてすごく楽しく観劇できたし、今でも場面のひとつひとつが頭のなかに鮮烈によみがえってくるすてきな芝居だったと思います。自分の原作を自分で戯曲にするという、ヘタを打つとどっちの立場的にも微妙にまずそうな、なかなか気合いのいる作業でしたが、そのぶん、持てる技術のかぎりを注いでやらせていただきました。結果的には原作者として劇作家として、この芝居に関われたことを心から幸福に思いますし、とっても楽しい仕事でした、ほんとうに。あらためて、この舞台に関わったみなさんに多謝多謝多謝。ありがとうございましたー!

再演、あるかなあー??
posted by 晴居彗星 at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月21日

寺山イズムを天野的に(『田園に死す』)

昨日は下北沢のスズナリで『田園に死す』(脚色・構成・演出:天野天街)を観ました。タイトルからご推察の通り、原作は寺山修司の同名映画です。演出の天野天街は劇団・少年王者舘を主宰するの劇作家・演出家。僕はこないだ本公演の『夢+夜』を観ました。今回のは流山児☆事務所の企画らしいです。

僕は原作である映画も観ているのですが、劇中で出演していた流山児さんの「全然『田園に死す』じゃねえじゃねえか!」というツッコミの台詞のように、かなり脚色が施されていて『田園に死す・天野天街バージョン』という感じでしたね。うまいこと原作の持つエッセンスを抽出しながら、そこに『身毒丸』のような他の作品や寺山の短歌、さらに寺山自身の生涯についても含ませて、メタ的な芝居になっていたのが面白かったですね。

そもそも映画の『田園に死す』もメタ的な作品で、前半部分の映画が、登場人物である映画監督が撮影している作品の一部であるという事実が明らかになるというような趣向があります。だから今回の芝居でもそこはうまく活用されて、天野天街お得意の、役者を投射した映像と重ねる手法によって「メタ」が描かれていました。僕的には、天野天街本人が出てきたら面白いだろうなあとちょっと期待していたんですが、そういう役目は流山児さんが担っていたような感じでしたね。

役者はオーディションで選んだみたいですが、小林少年役の人がすごく好きでしたね。動きもコミカルで、凄くキャラが立っていた。あと、原作と照らし合わせると、サーカスの空気女役の人が、体型的には全然違うのだけれども、メイクや衣装の雰囲気はそのまんまでしたね。主人公が分裂して3人の役者が同時にやるという面白い展開もあって、なかなか楽しめました。

原作もラストはメタ的でしたから、この芝居もどんな「メタ」で締めるのだろうと思っていたら、予想通りの締め方で気持ちが良かった。つまり、舞台装置が取り払われて残った背景の書き割りが、お客さんが入ってきたときに見たはずのスズナリの外観で、そこの階段を登場人物たちが上っていく、という終わり方だったわけです。僕的には、あのあと、役者たちが劇場の入口から入っていて「循環」したら最高にツボだったのですが、しかし現実問題としてキツそうでしたからね。客席側から役者が舞台にやってくるというシーンは流山児さんが劇中で3回ぐらいやっていたのですが、なにしろ客席が満員以上のギュウギュウで、かなり難儀してましたからねー。

音楽はJ・S・シーザーでした。実際に天井桟敷にいて、今は劇団万有引力にいるひとです。僕の時にはアフタートークはありませんでしたが、九條今日子さんも来たそうですよ。寺山修司はどの時代にも好きな人が多いですよね。やっぱり、彼の魅力は普遍的なもののようです。
posted by 晴居彗星 at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月27日

夢みるように夢をみる(少年王者舘『夢+夜』)

ちょっと日が経ってしまったけど、先週の土曜日、下北沢のザ・スズナリで、少年王者舘第33回公演『夢+夜』(作・演出:天野天街)を観てきました。

これは随分前から楽しみにしてたんですよ。いやー、面白かったねえ。『夢+夜』で「ゆめたすよる」。もちろん、夏目漱石の『夢十夜』をもじっているわけだけど、内容はそれとは全然関係なく、とある古びた駅の待合室(展開の中で、部屋やダンスホールにもなる)で繰り広げられる、あれやこれやのイマジネーション。基本軸としては、主人公が観ている夢というのが大きな舞台であり、その主人公と女性のカップルの切ない挿話が中心に置かれ、そこから少年時代の憧憬、悲惨な戦場、こうあればよかった的仮想空間などが読み取れるのだけれども、とにかく増殖するように広がって行く奔放なイメージは、まさに「あれやこれや」であって、無限なる夢幻。ループする物語、言葉遊びを基調とした連想、カオスな世界が、映像や音楽に彩られながら、留まることを知らずにダーッと流れていく。

流れるように観られるポイントとしては、少年王者舘の手法のひとつである「前の台詞の最後と次の台詞の最初が同じ文字で、それを重ねて発語する」ことによって、あるシークエンスの中のすべての会話がひとつの台詞として連なっていくというのがある。その際、それぞれの語句がすべて明瞭に聴き取れるわけじゃないんだけど、でもいいんですよ、別に。メタな手法としては、途中、主人公がいなくなり、後から客席後方から再登場してくることで、客席の視点と主人公の視点が同期していた(同じ夢を観ていた)ことに気付く趣向も取られている。途中に挟まれるユニークなダンスシーンも至福。冷静に考えりゃ、なんで急に踊り出すのかよくわからないわけだが(ラストのダンスホールのシーンは別)、通常ならミュージカルの類を「ケッ」と思う僕も、これは例外、もっと踊って!って感じ。大体が、よくわからないなんて言ったら、この芝居全体がそうなんであって、台詞、映像、ダンス、シークエンス、どれを取っても、「物語」というより「イメージ」そのものの提示であって、それの集合体を僕らは観ていたんだな。舞台狭しと登場するたくさんの人物にしたって、ほとんどがパンフレット見なけりゃ名前も分からない「擬人化されたイメージ」みたいなもんで、言ってみればすべてが主人公そのものなんだから。

だからね、ぶっちゃけ、意味なんていいんですよ。常々思うんだけど、テーマとかメッセージなんて、下手に設定してしまったら、作品世界の枠を狭めてしまうだけなんだから。それよりも、純粋にひとつポンと浮かんだイメージから連想ゲーム的に転がって行き、解体し、ループによってくっつけたりして形成された幻想的世界の方が、よっぽど豊かだし、陳腐な表現だけど、言葉に出来ない面白さがある。

観劇中はとにかく楽しくて、このまま永久に芝居が終わらなければいいのにとすら思えました。そう思える舞台ってなかなか無いよ。
posted by 晴居彗星 at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月20日

Broken Face

BGM作りも大体終わりまして(大して凝った物じゃないし)、津山高専での朗読ライブの準備は、まあ大体オッケーですね。よしよし。あとは朗読に口を慣らしておかないとって感じですかね。

一昨日は下北のアートスペースで「マームとジプシー」という若手演劇団体の『夜が明けないまま、朝』という芝居を観ました。通常の劇場ではなくギャラリースペースを使った公演で、あるエピソードに関連した別のエピソードをそれぞれ見せるべく、中盤で観客が違う上演部屋へ移動するという趣向でした。それの感想は、という限定的な話では別にないんですが、ポスト現代口語演劇の中のある傾向の作品群というのは、どちらかというと芝居よりも音楽に近いかもしれない、とふと思いました。ふと思っただけですが。具体的でなくて申し訳ない。

最近、やや脳内から出力する作業ばかりで、読書する気力がなかったです。でも、これから出力が増える(ていうか増やす)予定なので、ちょっと蓄えておかないとな。
posted by 晴居彗星 at 23:27| Comment(4) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月21日

デトックスへの懐疑(田上パル『改造☆人間』)

先日の水曜日、こまばアゴラ劇場で田上パル第6回公演『改造☆人間』(作・演出:田上豊)を観劇。

体の中の毒を抜いてスッキリした人間に生まれ変わろうという山奥のデトックス道場が舞台。そこで日夜断食や鍛錬に励む道場主と門下生たち、かつてそこにいた元門下生に無理矢理連れてこられた女の子たち、デトックス道場だと知らずに、道場破りのつもりが門下生となってしまった師範代を探しにやってきた普通の道場の門下生などが入り乱れるハイテンションな芝居。

こんなに体力の要る観劇は久しぶりである。なにしろ熱量が尋常じゃない。熊本弁で吠えながら、舞台を跳ぶわ走るわ飛び降りるわ。第一、道場の入口が、舞台下手上方にある穴で、その位置はゆうに大人の身長分ぐらいの高さなのだ。内容はいわゆるドタバタで、シチュエーションコメディでよく用いられる「過剰な人の出入り」「情報の差による勘違い」「ディスカッション」などの手法が、高密度のテンションと破壊力で繰り返され、いささかねちっこく、進行が遅く感じられて苛々してくるほどであった。

とにかく尋常じゃないほどテンションが高いので、どの場面を取っても血管が切れそうになる。特に、主人公格の門下生が、みんなの勘違いによって破門される場面は圧巻。声帯が破れるんじゃないかというぐらいの絶叫と嗚咽で、演技と思えぬほどのガチの「キレた怒り」がそこにあった。

通常、この手の物語にはパターンがある。つまり「非日常な場所」や「非日常を送っている人々」がいて、そこにいわゆる「普通の人々」が投入される。最初のうち「普通の人々」は当然のように反発するも、やがてその「非日常」に溶け込んでいき、それを体感していくうちに、新しい自分に成長する、というものだ。ちょっと上手い例が思いつかないのでアレだが、たとえば映画の『深呼吸の必要』などが微妙にこれに該当するかな(ちょっと違うかもしれない)。
しかし、この芝居はもっとしたたかである。「非日常な場所=デトックス道場」があり、「非日常な人々=門下生」がいて、彼らが通常ではありえないような狂態じみた生活をしている中に、「普通の人々=女の子たちなど」がやってくる。そこまではフォーマット通り。その導入部の時点では、僕なんかは先述のパターンが頭にあるから、デトックス道場から必死に逃げ出そうと画策する女の子たちに対しむしろ「どうせお前らそのうちここに馴染む展開になるんだからウダウダすんな」ぐらいに思うわけだ。
だがこの芝居では、この「非日常な場所」そのものに破綻が生じる。確かに女の子のうちのひとりが、この「非日常な人々」の一員になるという展開もあるのだが、しかしその反面、非日常が非日常であるということに門下生たちが自覚的になっていき、やがて道場主が反デトックスであるというどんでん返しに至る。そのときには、完全に登場人物達の心情はバラバラになっている。みんなして道場主をやっつけるという山場はあるものの、それはまさに物語展開上の「山場」でしかなく、最終的には、なんとみんなそれらのバラバラな思いをそのままに道場を去っていくという、フォーマットとは真逆のラストを迎えるのだ。日常からやってきた女の子たちも、最後まで「こいつらおかしい」と思ったままそこを後にする。つまりほとんど通常パターンと逆転しており、従ってカタルシスも無く、観客は登場人物達と共にモヤモヤした気持ちを抱えたまま、観劇を終えることとなる。

つまりこれは、デトックスというものを扱いながら、見る者にデトックスさせないという、相当にしたたかな演出なのだ。デトックスによって違う人間に生まれ変わるというのは本当なのか。本当だとして、それは良いことと言えるのだろうか。そんなクエスチョンを、そのまま提示したこの作品は、狙い通りの成功を収めたと言えるだろう。
posted by 晴居彗星 at 20:09| Comment(1) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月11日

NODA・MAP『パイパー』観ました

シアターコクーンで、NODA・MAPの第14回公演『パイパー』(作・演出:野田秀樹)を観てまいりました。いやー、並びましたよー、当日券。何しろ、18時にチケット発売のところを、15時から並びましたからね、3番目ぐらいでした。その甲斐あって、S席ゲットしましたよ。コクーンシートでも良かったんですが、まあ、たまにはこのぐらいの奮発もいいかと。

既に『新潮』で戯曲が発表されていたのは知ってたんですが、我慢して読まずにおいたんで、サイトや雑誌で紹介されているイントロダクション以上の予備知識を持たずに今日観ました。

地球から人類が移住した1000年後の火星の、かなり長い歴史がザクザク切って描かれるので、ちょうど歴史年表の重要トピックを見ていくような感じ。「何故火星はこんなに荒廃してしまったのか?」ということを、人々の亡骸の欠片であるところの「おはじき」に眠る記憶から読み解いていくという一種の謎解きであるけれども、結構、系統立て過ぎて捉えようとすると置いていかれるような、かなり感覚的なジャンプの仕方をしている展開が随所にあって、そういうのはちょうど『ギリシャ神話』や『古事記』を読んでいて「え、そこ途中はどういうことになっとんのよ」と突っ込もうと一瞬思うけどでもそれはヤボやなと思い直すのと同じようにして観た。今回かなりコロスが登場していて、それはたとえば中盤における民衆の混乱や死屍累々に迫力を与えている。迫力を与えるのは台詞の情報量についても同じで、開幕冒頭から「だいぶ飛ばすなー」とやや引き気味に感じるほど台詞が多かったのだけれども、クライマックスの火星を彷徨う母子のシーンにおいては、見た風景をいささか過剰すぎるほどの言葉の応酬によって表現することで、そのカオスを脳裏に焼き付ける効果を発揮。

タイトルにもなっている「パイパー」とは、人類と共に火星に来た、幸福値を測る機械だか生物だかよく分からないものなのだけれども、これも論理的にではなく、シンボリックな存在として抽象的に捉えた方が観やすい。それらが測定した幸福度をダイレクトにデジタル数字として舞台で見せる(これは数値化社会への風刺と嫌が応にも直結するわけだが)というわかりやすさから後半、次第に窮乏に向かうことで幸福の数値としての測定が意味を成さなくなった火星において、今度は破壊の象徴に見えてくるパイパーが亡骸の運び屋になることの意味が、終末世界に置いて生きること=喰うこととして生々しく描き出される。

松たか子と宮沢りえ、先述の母子の言葉の応酬が見事。橋爪功は何しろクライマックスの怪演が凄い。大倉孝二、進行役を担いながら面白キャラ。野田さん、演説シーンはさすがだけど、思ったよりも出番少なくてちょい残念。コンドルズの「パイパー」の演技、どういうことになってんのか観劇前は予想もつかんかったけど、意外とストレートにそのまんまでやってて、最初笑ったけど、破壊していくあたり、見入った。

一大叙事詩であり、連続性のある歴史を描いているのだけれども、それらは人々の記憶から見る「回想」として描かれており、だからなのかもしれないけど、ひとつひとつのエピソードがドラマというより一枚絵のように感じられて、それがまた雑多なぐらいいろんな要素を孕んでいる。だからあまり整合性を求めずに、それらの乱反射を楽しみながら観念的に見た方が面白いように思えた。かと思えば、終わり方なんか、ちょっと臭いんじゃないかというぐらいステレオタイプだったりもするんだけど。まあ、神話って突き詰めるとそうなるのかもな。

ともかく、面白かったですよ。でも、どう面白いのかと聞かれると、ちょっと説明しにくい。観劇後、なんだかモヤモヤしたものが残ったりもしたんだが、そのぐらい、いろんな要素が詰め込まれていたんだ。これを「入れ過ぎだ」と言うのは簡単だが、でも、すべてを論理的に整合性を持ってまとめたとして、そこに魅力が生まれるかと思うと、ちょっと怪しい気がする。何でもかんでも回収し過ぎて、逆に世界が矮小化してしまうこともあるのだ。だから、やはりこのモヤモヤは、この芝居を堪能した僕の、数値化出来ない幸福感なのだと思うのだ。
posted by 晴居彗星 at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月28日

投げ出す・対峙する

昨日は1時頃寝て、3時頃に目が覚めたら眠れなくなり、4時になったところで開き直って「もう朝」ということにしておいた。ので、1日中眠かった。バイトから帰って3時間ぐらい爆睡した。だって、ね、明け方とかに寝てまた寝坊したらシャレならん。あ、でも今のところ目覚めは順調に回復しております。とりあえず目覚ましアラームの音に慣れちまったのが原因と勝手に判断して、だいぶ長いこと東京事変の『閃光少女』だったのを、何となくPerfumeの『チョコレイト・ディスコ』にしてみた。選択基準が自分でもよくわかりません。

そんで早朝から、何故か、田中泯のドキュメンタリーを観ていたのだが、踊る体を観る人の前に「投げ出す」という意識、これ面白い。「見せている」より「見られている」意識を頭に置く。だからこそ、それは世界の中に息づいている、ひとつの現象にまで昇華されるんだな。それにしても、体に嘘をつかずに表現するのって、難しいだろうなあ。日常生活においてすら、そんなことが出来ているかと考えてみると、ちょっと疑問だ。

先日、かねてより興味のあった名古屋の劇団「少年王者舘」の去年の公演『シフォン』(作:虎馬鯨、演出:天野天街)のDVDを、公式サイトの通販で購入。2回観たが、すごく面白い。連なっていくイメージと言葉、場面をループさせ、感覚の迷宮に誘うような演出。映像を非常に効果的に使っていて、まるで夢の世界。何よりも共感するのは、その終末的世界観(と同時に、起源的世界観)だ。果ての風景にはノスタルジーがある。世界そのものと対峙するのが、やはり好きだ。これは、ナマで観た方がいいな。今度東京で公演するときは観に行きたい。

あ、そういえば今日、詩のボクシング放送されるんですね。
僕、BS観られませんけど。みなさん、お楽しみください。
posted by 晴居彗星 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月03日

壊れて消えないために(海辺のマンション三階建て×劇団森『やねまでとんだ』)

早稲田大学の地下劇場にて、海辺のマンション三階建て×劇団森・合同企画公演#101『やねまでとんだ』(作・演出:和智佑喜)を観てきた。

宇宙飛行士として地球を飛び立ち消息を絶った青年をめぐる物語。舞台は主に残された彼の両親の住む家のリビングと、主を失った青年の部屋。青年の同僚やら事件を追う記者やらが登場。基本的には、残された両親を軸にして展開。

出だしで「ちょっと苦手なタイプか?」と思うも、観ているうちに何となく慣れた。この芝居で扱われた「地球に帰れなくなった宇宙飛行士」というモチーフは、実は僕が好んで妄想するシチュエーションのひとつで、去年の詩のボクシング神奈川大会の即興詩においても「箱」というお題に対して頭にポンと浮かんだのはそういうイメージだった。想起される圧倒的な孤独感がなんか好きなのだ。で、この芝居で描かれるのは、その青年の孤独ではなく、残された家族の悲嘆。情報が得られない苦しみと世間の好奇に揉まれるという視点、悶えがよく分かる。かつて宇宙飛行士を夢見ていた父親が息子を救出に行くように流されてしまうあたり、彼が宇宙飛行士という職業に対してどの程度のモチベーションでいたのかというのがもうちょっと知りたいところ。青年と父親とを入れ替えて当て込んだ場面はなるほど。途中、笑わせにかかるシーンがあり、大いにウケていた。基本がシリアスだったので、他の場面でも幾つか、同じレベルの笑いがあるともっと良いと思った。やや希望が持てるラスト、その「やや」で留めたところには好感。

ちなみにこの芝居、2月に本厚木で一緒にイベントをやったメンバーである、小宮健太郎の初舞台であった(観たのは楽日だったけど)。青年の同僚の役。素を活かした演技が出来る役だったようで、比較的やりやすそうだった。お疲れ様でした。
posted by 晴居彗星 at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月25日

明大で岸田國士を鑑賞(KokoDoko『絶対に“ラヴ”と言ってはいけません』)

明治大学のアートスタジオで、KokoDoko第1回公演『絶対に“ラヴ”と言ってはいけません』(作:岸田國士、演出:谷山岳志)を観てきた。そういえば岸田國士って、明大創立当時の教授だったんだっけな確か。まあそれはどうでもいいけど。芝居は岸田國士の戯曲『あの星はいつ現はれるか』『恋愛恐怖病』『紙風船』の3本立て。『紙風船』が、そもそも戯曲が優れているというのを別にしても、比較的よく出来ていた。しっかしつくづく観て思ったけど、長い台詞の芝居っていうのは役者は難しいよなあ。一回の台詞の分量が多いと、どうしても言葉に寄りかかりたくなる。寄りかかってしまうと、言葉が浮いてきてしまう。すると不思議なことに、観ている方は全然言葉が入ってこなくなる。その辺りのバランス取るのが難しいよなあ(朗読だとまたアプローチ方法が変わってくるので、これまた考えどころ)。ともあれ、谷山君お疲れ。楽日まで消耗し切らないように(知り合いなので私信)。

最寄り駅が御茶ノ水だったので、観劇前に少し歩いて神保町で古本を漁ってきた。いつも行くのが矢口書店。外売りされている演劇雑誌をよく買う。今日も『新劇』のバックナンバーを購入。戯曲を読むのは、いつでも楽しい。
posted by 晴居彗星 at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月14日

顔に翻弄される人々(ポツドール『顔よ』)

昨日、下北沢の本多劇場で、ポツドールvol.17『顔よ』(脚本・演出:三浦大輔)を観た。千秋楽であり、満席+α。立ち見もギッシリ。

人間の暗部や本音をリアルな言葉と執拗なディティールで容赦なく描くポツドール。人間の生態を観客が観察するような芝居、いわば演劇界のディスカバリー・チャンネル。

隣り合う一軒家とアパートに住む人々が、それぞれの事情によって顔の美醜にまつわるあれこれに翻弄される。幾つかのエピソードが同時進行で描かれる。時折同じ台詞が重なるという憎い演出も。それぞれ、リアルとステレオタイプを織り交ぜた、巧みに作り込まれた物語であり、各エピソードが、顔にまつわる人間の考えやトラブルを多方面から扱っているので、分かりやす過ぎるぐらいに分かりやすくなっている。ポツドールであるから、それらは当然、目を背けたくなるようなシビアなエピソードばかりだが、それゆえに、もはや笑えたりもする。意図して笑わせようとしている部分も多かったように思えた。生活臭がにじみ出るような凝った舞台装置、幕によって建物セットの壁を剥がして断面図のように見せる、まるで水槽で飼う蟻の巣。あるいはCTスキャン。そして登場人物達の心情もスキャンされているように見える。シビアな状況下に登場人物達を放り込んで、奴らがどうするかを様子見る感じ。

顔に傷を負った女にまつわるエピソードは、分かりやすく凄絶。顔にコンプレックスがあるカップルのエピソードは、分かりやすく身につまされる。「人間にとって『顔』とは何か」という、ある種ポツドールが扱うテーマとしてこれ以上適したものがあるだろうかというような題材、それはおそらく作り手側も意識していると思われ、あざといまでに緻密に練り上げられた物語構成は、岸田戯曲賞受賞作である『愛の渦』を超えていると感じた。おそらくこの作品は今後も再演が繰り返される、ポツドールの代表作のひとつになるのではあるまいか。
posted by 晴居彗星 at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月20日

偏執狂的なサイクルで(楽々一座『僕が死んだら花火が上がる』)

先週、下北沢の小劇場「楽園」で、楽々一座第8回公演『僕が死んだら花火が上がる』(作・演出:白壁裕)を観た。

舞台は一人暮らしの青年の部屋であり、精神を病んでいる彼が薬を一粒飲む度に、彼女や友人、家族、果てはマジシャンや画家まで、いろんな来客がやってきては奇妙なやり取りをするという筋書き。ホントに、約2時間弱の芝居の間、全てその「薬を飲む→寝ようとする→チャイムが鳴る→来客→やり取り→客帰る→薬を飲む」というサイクルが延々続いていき、まるで催眠術のようである。

確かに、そのサイクルを重ねる度に、どんどん深層心理に近づいていくかのごとく、やり取りは不条理の度合いを増していく。また、違った来客でも、同じ俳優が演じた前の客とのリンクが挟まれ、例えば訪問して来た女優が、その前に訪問して来た母親と重なる台詞を発したり、そのマネージャーは元カノとリンクしていたりする。こういった、同じ俳優に複数を演じさせてリンクさせるという手法はよくあるのだけれども、これによって、主人公のカオスな精神状態を、そのリンクの度合いや不条理の度合いで表しているように思えた。また、様式化された台詞ややり取り、例えば彼女を見て「あ、僕の彼女だ」と声に出して言ったり、拍数で演出されたような機械的なテンポの会話、客が帰った後に必ずテーブルと座布団の位置を整えるなど、主人公の内面以上に、その芝居全体がパラノイア的であり、そしてその執着の先にあるのが死である。最初に「死ななきゃ」と言っていた主人公が、最終的に死に至ることで、そのパラノイア的世界観は完結されたわけだ。
posted by 晴居彗星 at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月18日

翻訳劇は難しい(OPAP vol.29『OUR COUNTRY'S GOOD〜我らが祖国のために〜』

前回の『ゴーストユース』に引き続き、先日も桜美林大学パフォーミングアーツプログラムvol.29『OUR COUNTRY'S GOOD〜我らが祖国のために〜』(作・演出:高瀬久男、原作:ティンバーレイク・ワーテンベイガー、翻訳:堀真理子)を観た。

18世紀後半、流刑植民地時代のオーストラリアで、軍人が囚人の情操教育目的のために芝居をやらせるという話。メインとなる人物はいるが基本的には群像劇であり、それぞれがそれぞれの立場で葛藤したり争ったり打ち解けたり的なあれこれ。

2時間半の2幕劇で、演じるのも大変だろうが観るのも非常に体力が要った。そもそも、翻訳劇という時点で大変なのだ。俳優達も、苦労しているというのが目に見えて分かった。翻訳劇特有の台詞回しを自然に言うのは難しく、しかも大抵、必要以上によく喋る。特に主役級の軍人を演じていた人の負担は大きかったようで、好感は持てたのだが、台詞をこなすのに必死のようだった。そもそもこの役のキャラクター自体、掴むのが観ている側も難しく、感情移入しにくい。反面、いかにも悪人とか、アクの強い囚人などの役は、演じやすかったようで生き生きしていた。

軍人と囚人が一緒になって芝居作りをするという話だが、諸事情によってなかなかそれが進まないという展開であり、観ていてやきもきする。そのせいか、なかなか芝居に入り込めずに苦労した。これは、そもそもこういったタイプの芝居に対する好みの問題もあるだろうから、こっちの責任でもある。それでも、ラストの開幕場面は大変効果的で、囚人達と一緒に舞台に立っている気分になった。物語そのものは僕の趣味ではなかったけれども、要所要所の群像処理や入れ替えなど、演出に関して学ぶべき所はあった。
posted by 晴居彗星 at 22:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月28日

心の中は燃えている(青年団『火宅か修羅か』)

先日、青年団第55回公演『火宅か修羅か』(作・演出:平田オリザ)を観劇した。

舞台はとある旅館のロビーにあるような広間。椅子とかテーブルとかある所。そこで繰り広げられる、いろんな事情を抱えた人のいろんな会話。典型的な平田オリザスタイル、静かな演劇とか現代口語演劇とか言われている形式の、お手本のような芝居。

幾つかのエピソードがあるが、主軸となるのはある小説家の再婚話。三人娘があれこれ。ここのパートを観ていると、やはり平田オリザは論理的、もっと言えば数学的に芝居を創っているんだなあとしみじみ感じる。例えば長女はこれを覚えているけど次女は覚えていない、二人は覚えているけど三女は覚えていない、みたいな、そういう所持している記憶のバランスとか、父親の再婚に対する思いの度合いとか、とても分かりやすく配分されている。複数のパートがどこで繋がるとか、人の出入りとかも、ともすれば機械的と感じるほど、綿密なる計算を元にして創られている。「構造」を意識して芝居を創るのは、もちろんどの劇作家も行っていることだけど、平田オリザの芝居はいい意味でも悪い意味でも、その「構造」こそが作品として浮き上がっている点で、独特だと思う。僕の中では、平田オリザは劇作家というよりも、研究者がフィールドワークで芝居を書いているという印象があり、そこが魅力だったりする。

だから平田オリザ以降、腐るほど涌いてきたエピゴーネン達の芝居がただ眠気を誘うだけのヒーリング演劇なのに対し、平田オリザの作品は、なんだかんだで最後まで飽きずに観てしまう。彼の岸田戯曲賞受賞作『東京ノート』は小津安二郎の『東京物語』がアイディアの元になったらしいが、確かに小津安二郎の映画も、静かなんだけどなんだかんだで最後まで見入ってしまう、という点で、平田オリザに近いものがある。

でも、一般に「静かな演劇」というけれども、平田オリザは結構サービス旺盛で、笑える場面やドタバタな場面もあり、実はこっそりエンタメしている。この芝居でも、三女が歌うシーンは決してリアルではないし、仲居さんの演技も、わりと過剰だ。そういったものを交えつつ、何気ない会話がなされる中で、この芝居で常に雰囲気の中に浮かんでいるのは、亡くなった人間に対する想いである。小説家パートにおける亡き妻(母)、ボート部OBパートにおける亡き仲間。今は存在しない人間に対する気持ちが、今を生きている人々の考えや生活にも影響を与えていることが分かる。そしてその想いは、表面上は平静であっても、心の中で沸々と燃えている。火宅である現世のカオスは内面にこそある、というのが、じわじわ伝わる作品。
posted by 晴居彗星 at 22:18| Comment(3) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月24日

いつの間にか時は経つ(OPAP vol.7『ゴーストユース』)

OPAP(桜美林大学パフォーミングアーツプログラム)vol.7『ゴーストユース』(作・演出:岡田利規)を観た。現在の若手の劇作家・演出家の中で最も注目されている人物であろう、岡田利規の書き下ろし作品である。俳優やスタッフは学生。

35歳の主婦が20歳だった頃のことを思い出す、という話で、例によって観客に直接語りかける超リアル日本語、ノイジーとも評される独特の肉体表現(この作品ではちょっと抑えめだったような印象)、同じ役をどんどん俳優を入れ替えて会話をループさせる間接話法。「想像して欲しいんですけど」と、様々なアイテムを想像することを観客に促すと同時に、35歳の主婦は20歳の頃の姿になって、当時のこと(友達との会話や夫との出会いなど)を回想する。回想と言っても、沢山ではない。一つのことを何度も繰り返す。

舞台は椅子やらテーブルやらが広く置かれて、大きな壁に映像が投射されており、設置してあるカメラによって、俳優が持っている携帯電話のメール画面がリアルタイムで表示される。メールでは、20代の自分がこんな35歳になれるだろうか、なりたいと思っているだろうか、なりたいと思っているとあなた(観客)は思っているのか、などと問いかけていく。また、壁の向こう側(客席からは見えない)には部屋があり、そこもカメラによってリアルタイムで中継されるという仕組み。

僕が強く印象に残った場面は2つ。高橋しんの『最終兵器彼女』を引用した「タイムマシンがあったら、1999年になっても世界は滅びないと子供の頃の自分に教えてあげたい」と語る場面。そして、今こうして20歳の姿になっているけれども、そろそろ35歳の姿に戻らないと幼稚園に迎えにいった時に子供が自分を認証してくれない、と現実に目を戻す場面が、とても心に沁みた。その「認証してくれないから…」と語っていた俳優の演技も、とても良いと思った。
posted by 晴居彗星 at 21:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月10日

そして死体の山(五反田団『生きてるものはいないのか』)

こまばアゴラ劇場で五反田団の『生きてるものはいないのか』(作・演出:前田司郎)を観た。

タイトルが匂わせているように、要は人がバタバタ死んでいく話で、大筋の展開はとてもストレートというか単純明快なのだが、とぼけ方というか「え、そこにウエイト置くの?」的なひねくれ方が絶妙。スケールの大きいものを小さいものを絶妙なバランスで組み合わせて面白く仕上げている。それでいて、後味としては終末的世界観をいい感じで匂わせる。うむ。

舞台はひな壇になっており、簡単な装置だけで幾つかの空間を描くわけだが、一見だらっとしているようで、観客の視点というか「ここ観た後、多分このタイミングでこっち観る」というようなのはかなり的確に計算して演出している。それ故にこっちの感覚としてもスムーズに流れるように芝居が進んでいくし。ヘタすりゃ単調になってしまうであろう「死に様博覧会」を、ラストまで飽きさせない構成力は凄いと思いました。
posted by 晴居彗星 at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月23日

若いダンスのサラダボウル(OBIRIN LABO project 3[ソレゾレノカラダカラ])

今日は桜美林大学でダンスを観た。この大学には高校時代の先輩が在籍している関係でよく芝居の公演を観に行くのだが、ダンス公演を観るのは初めてである。学生による7つのユニットの作品のオムニバス。
今回もそれぞれについて短めにコメント。


・Baobab『SHACKLES』
振りが揃う所とずらせている所とのバランスが絶妙。一見するとバラバラっぽくても全体を観れば「ううむ」と唸る。僕的にはそういうカオスっている部分がとても好き。展開の演出がドラマチックで飽きず。特に後半の畳み掛けるような構成は躍動感が素敵だった。

・TaTa『だらっとハツラツな朝』
可愛いダンス。タイトル通り、目覚めの感じがよく出て分かりやすい。結構キッチリしている所が多かった気がして、もうちょいだらだらしててもいいかもとか思った。照明効果なども朝っぽくて、タイトル知らなくても「朝の風景だな」って分かったと思う。

・ハイカラク『落果』
成熟(女性性の萌芽?)に対する、違和感みたいなのを表現しているのかと。そうであるならばそれは成功していたと思う。身体にわき起こってきたモノを剥ぎ取ろう、振り落とそう、的な。一番、身体とダイレクトに向き合った作品だったかと。

・ボウBowズ『シャツ』
ハイカラクのダンスと良い対照だと受け取った。『落果』が、人間の変化をいつの間にか内側からわき起こって来る、逃れられぬモノ、みたいに見せているのに対し、これは自らの意志による人間の変化を表現してるのかなと。ギャグっぽくて、笑いながら観た。

・若林里枝『背中のひまわり』
一人でダンス。そこそこ広いホールなのだが、一人でも充分保っていたのは凄い。身体の使い方が上手いなというのは素人目にも分かった。音響効果でナレーションを入れていたのだが、ダンサー自身が喋ったりしたらどんなだっただろう、とも考えた。

・Revolutions『No reason...』
テクニックそのものは凄い。ストリートとかでやってそうな感じのダンス。このラインナップの中にあると逆に珍しく見えた。ダンサー3人の躍動はあったが、これプラス、空間そのものの躍動感を受け取りたかった。これは僕の好みの問題。

・コカラ『マエガミヲキル』
ダンスや構成の完成度はかなり高いと思った。後半ややスタミナ切れかな?みたいに見えたけど、それにしてもバランスが絶妙で力強かった。全員同じ衣装だったので、色彩的には否応無く統一される。それが良いとも言えるし、惜しいとも思える。これも好み。


Baobabの作品が自分的には一番しっくり来た。カオス的で、ある種ゴチャゴチャしているような物が好きだからだと思う。大人数で走り回ったり跳んだりしているのも、身体と同時に空間そのものをダンスしているな、って風に感じられて。

ダンスは詩に似てるなと思った。因果律が無くても、イメージの連鎖で形にすることが出来る。衝動をダイレクトに表現に出来るのも似ている。芝居や映画はある程度ロジックが必要になって来る(まあタイプにもよるけど)。それは戯曲や小説もそうだし。

まあ僕はダンスの知識はほとんど無いのだけれども、どんな動作もダンスである、みたいなのが現代的なダンス(コンテンポラリーダンスっていうのかな)だとするならば、それは自由であると同時に、難しい面も大きいんだろうなと思った。どう動いてもいいならどうやってもいいのかというとやっぱりそうじゃなくて、このコンセプトならこっちよりこっちでしょ、みたいなのを取捨選択する作業、みたいなのはより一層大変になってくるのかな、と、観てて感じた。とりあえず、どれも面白かったです。
posted by 晴居彗星 at 21:04| Comment(0) | TrackBack(1) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月21日

全力投球の悪ふざけ(鉄割アルバトロスケット『たこまわせ』)

下北沢の駅前劇場で、鉄割アルバトロスケットの公演『たこまわせ』(作:戌井昭人、演出:牛嶋美彩緒)を観劇。初日だった。

鉄割は「ムチャクチャ過ぎて面白い」と評判の劇団だったので、一度観てみたいと思って足を運んだのだが、それはもう評判通り、ムチャクチャだった。ナンセンスとかシュールとか、そういうレベルを越えている。この公演は5〜10分程度の短い演目のオムニバス上演というスタイルなのだが、演目と演目に関連性があるわけでもなく、内容も何もあったもんじゃない、「ちょっと思いついちゃった」って感じの、アホのような会話や状況をひたすら垂れ流す。もう、こんなことをわざわざ稽古してみんなに見せようっていう気持ちがまず凄い。「大の大人が何やってんの?」と微笑んで拍手を送りたくなる。

会場は一面のゴザと座布団、天井には提灯や万国旗、チラシと一緒に駄菓子が付いてきたし、ロビーで販売してるビール飲みながら観てもオッケーで、何なら寝転んで観てもいいよ、みたいな、完全に宴会場みたいなシチュエーションだったので(チラシも「出演者」が「出宴者」になっている)、やってることも、いわば宴会芸(まあ、宴会芸でこんな芝居されたらヒくだろうけど)。だから小道具も装置も凄くチープで適当。音楽はかなり多用(ギター弾き語りも有り)。照明効果は演目と演目の間の暗転が主。

役者もこれまた個性的なキャラばかりで、もうその俳優自身のキャラで既にオチてたりする。演技が上手いとか下手とか、もはやどうでも良くなる。とりあえずいい年した大人が汗かきながら意味の無いことをしているという画が既に笑える。

前半の演目も『てんごくのとびら』『古沢合唱団』など面白かったが、休憩を挟んだ後半に入ってから俄然面白くなった印象。『Baka Dylan』や『お遊戯の時間』『金色馬鹿夜叉』などは大爆笑。前半は、とりあえずやってることの不毛さに誘い笑いを誘発される(いや、いい意味なんだけど)ようなパターンが多かったが、後半は純粋にテンポや演出によって笑えた気がした。途中、きっかけ待ちなどでもたついたり、滑舌が悪くて何を言ってるのか分からない部分が結構あったが、宴会芸だと思うとそれほど気にならず。ううむ、うまい逃げ道だな。

これは「芝居」を「公演」してるんじゃない。「悪ふざけ」を「発表」しているのだ。そしてそれがこの劇団の最大の持ち味だろう。全力投球の悪ふざけは面白い。この悪ふざけのテンションを持続したまま、オムニバスじゃなくて長編を観たいなと思った。
posted by 晴居彗星 at 01:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。