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2010年09月17日

『告白』『インセプション』『借りぐらしのアリエッティ』

ためしにブログのデザイン変えてみました。今まで「黒」だったので「白」っぽい感じで。これからもときどき変えてみるのもいいかもなと思いました。

気分転換がてらに、最近観た映画の感想でも書いてみようと思いましたので、まずは『告白』。湊かなえさんの原作は読んでないんですけど、映画はとても面白かった。監督は『下妻物語』や『嫌われ松子の一生』の中島哲也監督で、僕は、現在の日本映画界でハリウッドと張り合える数少ないうちのひとりだと思っています。前々から思ってるんですけど、日本映画が大資本を元にした超大作の分野でハリウッドに対抗するのは本当に難しいことなので、それよりはむしろ変化球的に、例えば宮崎駿監督に代表されるようなアニメーション、そして、中島哲也監督のような日本のコマーシャリズムが創りだしたスタイリッシュな映像感覚やトリッキーな演出による、ある種「キワモノ」とも見られるような作品の方が、日本独自の立ち位置を築けるんじゃないかと思ったりなんかしているので、そういう意味で、中島監督の動きは注目してます。

で、『告白』はそんな中島演出のトリッキーさがあえて抑えられて「こういうのも出来るぜ!」みたいなテクニックを見せた感がありましたね。僕としてはもっとトリッキーにしても作品世界は壊れないように思えたので、ガンガン行っちゃって欲しかったんですが。それでももちろん、演出の上手さは抜群。空や雨粒などの風景描写による暗喩も過不足のない長さでスッと流すし(下手な監督だとクドくやってしまう)、松たか子という役者の持つ稀有な演技力をさらに増幅させて、メインとなる生徒それぞれの芝居を映像の力で「魅せて」いた感じがしました。今さらですけど、松さんは本当に上手いですね。あと、終わり方に救いが無いのにスカッとするのがいい。僕はこの手の話で妙にハッピーエンドに持って行くのが本当に苦手なので、そのへんも好感が持てました。復讐劇の魅せ方として、とても面白い映画だった。

さて次は『インセプション』。「夢」を題材にしたSF映画でしたが、急逝された今敏監督の『パプリカ』(原作は筒井康隆)を想起したのと同時に、『ルパン三世』シリーズや『オーシャンズ11』のようなスパイものの味わいがしました。夢を階層的に設定してどんどん複雑にしていくのがミソですが、僕がとにかく面白かったのは、他のメンバーが第3階層に行った中で、第2階層に残った仲間のひとりが、眠っているディカプリオたちの体を運んだりしてあれこれ奮闘する場面で、みんなの体をぐるぐる巻きにして運ぶのがシュールで面白かった。あれ、家で酒飲みながらDVDで観てたら、絶対に爆笑してましたよ。この映画において侵入する「夢」っていうのが、単にターゲットの脳味噌というよりも、主人公たちのそれも含めたものであるっていう設定が、なかなか普通に鑑賞しているとスッと理解しにくくなる一因であるんですけど、ユングの集合的無意識みたいな感覚をちょっと頭に入れておくといいのかなと。まあ、混乱させるように作ってある話なので、その混乱を楽しんで観るのが正解って感じですかね。そのあたりはデヴィッド・リンチみたいな鑑賞法で。

僕的には、設計人に任命された女の子をディカプリオがレッスンするときのような、エッシャーの絵を映像化したような描写がすごく面白かったので、実践の時にああいう面白い映像がどんどん出てきてほしいなと思いましたね。そこはちょっとだけ物足りなかったです。

さて『借りぐらしのアリエッティ』の話。ジブリの若手である米林宏昌監督のアニメーション作品です。原作はメアリー・ノートンの『床下の小人たち』。宮崎駿さんは企画と脚本を担当して、米林さんの演出にはほとんど口を挟まなかったらしいですが、ミクロの世界の魅せ方や、要所要所で現れる虫たちの描写はかなり巧みで愛らしく(ダンゴムシが可愛い!)、細かいところを楽しませるセンスはなかなかのものだと思いました。超大作ではありませんが優れた佳品という佇まいで、何度観てもゆったり楽しく観られそうです。声優陣ではアリエッティを演じた志田未来さんが上手くてびっくりしました。それから家政婦役の樹木希林さんの存在感。あれは怖かったですねー。ユーモラスではありながらも物語上における「敵」の風格がよく出ていて、観ていたこどもたちは本当にあの家政婦が嫌いになったと思います。

宮崎さんの書いた脚本はシンプルでわかりやすい作りに仕上がっていたわけですが、先にも出てきたアリエッティたちにとって敵役となる家政婦が、何故あんなにも小人たちを目の敵にするのかという動機がうまく見えなかったというのと、あとは主人公の少年の台詞ね。「きみたちは滅びゆく種族なんだ」と「きみは僕の心臓の一部だ」には、ちょっとびっくりしました。ストーリー上では鍵となる印象的な決め台詞ではあるし、書いた意図はわかるんですけど、ちょっと浮いて聞こえてしまいましたね。これは米林さんの演出も含めてですけど、少年にちょっと感情移入しにくかった感じが僕にはあって、そこをもうひと越えしてもらえると、より深く作品世界に没入出来たかなと思いました。
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2010年02月27日

Twitterの自動投稿の件/『アバター』観ました

というわけで、あまりにも雑感がTwitterに移行しているので、ちょうどこのSeesaaブログが、Twitterとの連携サービスを始めていたのを発見したので、1日のつぶやきがこっちにまとめて自動投稿される設定にしてみました。前のエントリを見てお分かりのように、毎日こんだけのことをつぶやいていたら、そりゃあ、ブログに雑感を書くネタが無くなるわなという感じです。

ただ、なんかツイートとツイートとの間隔が開きすぎな感じがしますね。なんか設定で変えられるアレが見あたらないんで、これがデフォルトなんでしょうけど。僕、休日とか夜中だと結構頻繁にツイートを連投したりしてるんで、日によってはエントリがものすごい長さになるかと思います。そのへんは、まあ、ご容赦ください。

ところで先日、ようやく『アバター』を観ました。吹き替えで。もちろん3Dです。IMAXで観たら完璧だったんでしょうが、それなりに奥行きは楽しめましたよ。

キャメロン監督は「今後はずっと3D作品を撮る」みたいなことを言ってたような気がします。確かに迫力は段違いだし、劇場で観ずにDVD化を待つのが当たり前になってしまっているこのご時世、3Dという新しいアイテムによって、映画というメディアが登場した頃の「見世物」としての価値が復活したようにも思えます(ただ、家でも一般的に3Dが観られるようになるのも時間の問題という気もしますが)。ジャングルの描写や戦闘シーンをはじめ、とにかく立体感によって、平面的な映画とは違う臨場感が味わえました。例えば『ディープ・ブルー』や、最近だと『オーシャンズ』みたいな映画を3Dで観られたらすごい迫力なんじゃないですかね。

ただ、やはり劇映画である以上、ストーリーに価値があるとおもうのですが、この『アバター』、僕的には途中から、詳しくいうと、散々侵略者(地球人ですね)から悪行の限りを尽くされたあと、主人公たちが反撃に出るあたりから、どうも僕的には釈然としない心境になってしまって、そこから先はずいぶん作品世界から距離を取って、最後までそれが埋まらないまま鑑賞したという感じでした。簡単に言うと「やられたからやり返した」という筋書きで、もちろん、やり返す理由も十分理解出来るのですが、なんか、「あー、結局そうなっちゃうのね」的な気分になってしまいまして。侵略者と被侵略者に、それこそ綺麗に悪と善というアバターが与えられてしまった感じで、もちろん話がわかりやすくなって誰でも構図が了解出来るようになっているわけですが、なんだか展開の中で死んだりしていく人が物語の駒みたいに感じられてしまいました。いや、それが倫理的にどうこうとかじゃなくて、ただ単純に、いわゆる「ハリウッド的脚本術」と言いますか、ああいうのが透けて見えた感じがして(脚本術自体はテクニックとして必ずしも悪いわけではないのですが)、あーあそこで死んだのは伏線だよね、みたいなのが、妙に浮き上がって見えてしまいました。なにしろ、なまじっか、映像はすごい迫力なわけで。そのギャップがまた僕の「釈然としない感じ」を助長させてしまったわけです。

二元論的な話にしたことでストーリーがスリムになって、そのぶん、思う存分迫力ある戦闘に観客が集中出来るようにしたのかわかんないですけど、僕的にはむしろ、あの星でアバター化した主人公が先住民たちの生活様式に慣れていこうとする日々の描写、あのあたりが一番面白く観られましたね。動物や植物の造形も面白いと思ったし、空や崖などの迫力もエキサイティングでした。素直にからっぽな気持ちで鑑賞するには充分面白い映画だったと言えますが、もうちょっと物語構造にカオスな面が(主人公たちのチームが組織と先住民たちとのあいだで揺れ動く以外に)欲しかったなと思いましたねー。
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2009年09月08日

やさしさに包まれたなら

連日、稽古で忙しかったのですが、今日は急遽、稽古が休みになったので、ずっと自分の作業をしています(今現在)。

アウトプットを続けていたので、補充をすべく、今日は宮崎駿監督の映画『天空の城ラピュタ』と『魔女の宅急便』を、2本続けて鑑賞しました。2つとも久しぶりだったので、新鮮な気分でした。昔から好きな『ラピュタ』の冒険活劇と展開のスピーディさには、いつも胸躍らされますが、今日は気分的に『魔女の宅急便』にいたく感動しまして、素晴らしい作品だと再認識しました。少女の心の葛藤、成長することの苦しさや喜びや切なさを見事に描いた傑作ですね。ラストの、トンボを助けたキキのもとにジジが駆け寄り肩に乗ったあの場面は、切なく、心を揺さぶられます。

小さい頃に観た映画や本を、今になって触れるというのは、単にその作品の面白さを思い出すというのだけではなく、当時の自分の心情や環境などを記憶から掘り起こすという点で、なかなか重要な作業だなと思います。人はほっとくといろんなことを忘れますが、記憶そのものは脳のどこかに眠っていて、ある瞬間にそれが蘇ります。なんでもない曲がり角を曲がったときに、こどものころに似たような道であった出来事などをふっと思い出します。

作品に触れるのもそれと同じで、例えば『魔女の宅急便』などを観ると、僕は小学生の頃にそれを観ていた時のことをすぐに思い出すことができます。窓から吹く昼下がりの日曜日の風、ビデオデッキが置いてあった母の部屋の畳のにおいや障子の色、観ながら食べていたポテトチップスとサイダー。そして観終わった後、妙に興奮して自分の部屋に戻り、その熱が冷めやらぬうちにジャポニカの自由帳にマンガを描いていたこと。

良い作品に触れると、創作衝動が起こるものですが、小学生の僕にとって、大きな衝動を与えてくれたもののひとつが、スタジオジブリの初期作品だったかもしれませんね。だから、今『ラピュタ』や『魔女の宅急便』を観ると、そのときの衝動も思い出します。なんだかよくわからないが、確かに頭の中でカッカしているこのイメージを、どうにかしてアウトプットしたい。小学生の頃、日曜の昼下がりに、そんなふうにしてやみくもにペンを走らせていたことを、昨日のように思い出します。いや、昨日よりもよっぽど鮮明に蘇りますよ。昨日食べたご飯のメニューよりも、僕は、そんな衝動の方を覚えていたいですね。

……いや、さすがに、昨日のご飯のメニューぐらいは覚えていたいけどさ。やっぱり。ちなみにカレーでした。
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2009年07月14日

『ヱヴァ:破』観ました

さて、歯医者に行った後に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(総監督:庵野秀明)を観てきましたよ。

いやー、抜群に面白かったです。いろいろな意味で興奮しました。映像美もさることながら(風景描写、メカニックのディティール、そして使徒のデザインの美しいこと!)、今回は物語的にも『序』のような「ちょっと展開がギュウギュウすぎでは」といった違和感もそれほどなく、エピソードの取捨選択が効果的になされており、まさに再構築がうまく機能している気がしました。例えば、TVシリーズではあった、シンジとアスカのユニゾンなんかは結構好きだったのですが、あれをエヴァ3体の連携攻撃の話に統合したのは、スッキリしてて逆によかった。参号機暴走のエピソードをああいう風にしたのも前後の展開と相まって効果的な変更。それにしてもアスカの扱いは不憫だな……。

個人的嗜好で言えば、やはりレイの「碇君がもうエヴァに乗らなくて済むように……」と言って突っ込むあたりが一番ウルッとしました。僕はやっぱり『さようなら、ドラえもん』といい、こういう「誰かのことを思いやって自分を犠牲にしようとする」話に弱いです。それが綾波レイのけなげさと相まって、かなりグッときました。

今作でもだいぶ食い込んではきてますが、新キャラであるマリが生きてくるのは次作以降でしょう。でもこのマリの設定は良いポジションで、ちょうどシンジやアスカと対照的な位置にあるのはうまいと思いました。「どうせ」なシンジたちと「やらいでか!」なマリの対比は絶妙。こういうのがひとり投入されることで、物語は旧作と大きく変わる気がしますね。次作である『Q』と、同時公開されるらしい最終話の公開日は未定だそうですが、一体どういうふうに収拾をつけるのでしょうか。期待したいと思います。
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2009年07月07日

伝説の最低映画『死霊の盆踊り』を観て

ところで、夏ですね。しかも今日は七夕ですね。盆踊りですね。
そこで、今回は『死霊の盆踊り』という伝説の映画の鑑賞にチャレンジしました。

何がどう伝説なのかというと、ともかくちょっと映画レビューやその手のサイトを見ると分かりますが、この映画は「世界一つまらない最低のZ級映画」として評判なのです。僕もうわさには聞いていて、そんなに異口同音でつまらないと叩かれるとはどんな内容なんだろう、一度観てみたいものだと思っていまして、近所のレンタルショップに置いてあるのを確認したままずっとここまで来てました。で、夏のこの時期ということもあり、ようやく重い腰を上げたわけです。

で、感想ですが、…………ヒドイ!

内容は、っていうか、内容もクソも無いんですが、まあ、タイトル通りですよ。死霊が踊ります。以上です。一応のストーリーとしては、ええとね、なんか車に乗った男女が事故って、なんか墓場的な場所に捕らえられるんですね、「夜の帝王」とかなんとかいうナゾのおっさんに。で、なんだか知らないけど、そのとらわれの身のまま、強制的に死霊たちの踊りを見せ続けられるという、それだけの話です。

「死霊たちの踊り」と言われてもよくわかんないと思いますけど、死霊とはいいつつも、それらはみんな裸の女性なんですよ。別に死霊っぽい特殊メイクしてるわけでもなく、どう見てもただのストリップです。それが、ひとりずつ、なんか持ち時間10分ずつぐらいで「はい次」「はい次」って感じで順番に踊りを披露していきます。踊るだけで別に危害はありません。まあ、見たくもない踊りを強制的に見せられているという苦痛はありますが。死霊たちはみんな、やたらおっぱいをブルンブルン、おしりをプリプリ振るわせながら、扇情的に踊るんですが、なんか墓場のチープなセットといい、満足げに死霊たちの踊りに見入る夜の帝王とその側近といい、捕らわれながら所在無さげな男女といい、なんかいろいろコントにしか見えないので、恐ろしいほどなんにもイヤらしくありません。それが延々80分ぐらい。

ともかく目標は「最後まで眠らずにじっくり観る」だったのですが、それがこんなに難しいことだとは思いませんでした。見ているうちに意識が朦朧としてきて、最後の死霊2人ぐらいまで来た頃には、もう目を開いて画面を眺めるのがやっとでしたでしたね。本編90分でしたが、僕の人生において、まったく価値の無い90分だったと思います。ともかく、観終わったあとの僕は「始まりがあれば終わりがある」ことの喜びを心の底から感じていました。それを再認識出来たことを、無理矢理価値にしておこうと思います。
posted by 晴居彗星 at 20:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月01日

『ヱヴァ:序』観ました

遅まきながら、DVDにて『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(総監督:庵野秀明)を観ましたよ。

元となる『新世紀エヴァンゲリオン』に関しては、僕も10代の頃にひと通り目を通しております。僕は1986年生まれなので、テレビシリーズや劇場版が公開された当時は小学生で、中学時代に後追いでビデオで観たクチです。新劇場版は、それらを「旧作」と位置づけて、新たに再構築した別モノであるとのことで。基本的な内容は、旧作テレビシリーズの第壱話〜第六話のまま。ただやはり再構築だけあってチョコチョコ違うし、ていうか僕も、当時ある程度熱中したとは言え、あれ以来ちゃんと観てなかったし、マニアと言えるレベルでもないので、ストーリーもぼんやり覚えているぐらいで、わりと新鮮な気持ちで観れました。

まあ、再構築して別モノ扱いとは言っても、六話分=150分ぐらい?を90分程度に収めているせいか、話が進むテンポが随分速く感じられて、やはり旧作を観ていない人には「なんで? どして?」って感じなんじゃないですかね。次回以降は新キャラが出てきたり、わりと話が変わっていくみたいですけど、今回のも、やはり旧作もざっと目を通した上で観た方がいいような気がしましたね。

とりあえず冒頭はかなりシンジ君に同情しました。改めて観ると、やはりどう考えても理不尽な話ですね。周りが全部敵に見えます。僕なら受け入れられない。それを「逃げちゃダメだ」と言いながら、時折拗ねながらも受け入れてパイロットになって戦うんだから、随分偉いと思いますよ。ヤシマ作戦のシークエンスは、思わず手に汗を握ってしまいましたよ。「すべての生き物の運命を預けるわ」なんて言われて、おいおいマジかよって感じですね。背負うものがハンパじゃないですよ。いや凄い話だ。映像的には随分凝っている印象です。まあ、その辺の技術的なことは、大して造詣は深くないですが。でも観ながら何回か「おー」って言ってました。なんか作り手のフェティッシュな意気込みを感じましたね。音とか、モノのディティールとか。四部作で、残り三作。どうなりますかねぇ。
posted by 晴居彗星 at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月05日

運命が導き出す答え(『スラムドッグ$ミリオネア』)

ダニー・ボイル監督作品『スラムドッグ$ミリオネア』を観てきました。

舞台はインド。スラム育ちの無学な青年・ジャマールが、クイズ番組『クイズ$ミリオネア』に出場し、だれもなし得なかった全問正解まであと一問というところまでこぎつけた。この番組では、放送時間内にひとつの勝負が収まらなかった場合は次回の放送で続きをやるシステムなので、その王手の段階で一旦テレビ局を出るわけだが、そこで、警察に掴まる。学校にも行ったことがないのにあんなに正解出来るわけがない、不正をやったに決まっている、というわけだ。拷問を受けた彼は、何故それぞれのクイズの正解がわかったのかを、自らの過酷な過去と照らし合わせながら語り始めるのだった…。

というのが、公式サイトや宣伝などで載せられている簡単なあらすじです。勘の良い人は、このあらすじから、映画の内容をざっと予想することが出来ると思いますが、おそらく、ほぼその通りの映画です。なにか期待以上のどんでん返しがあるわけではないですが、きちんと期待通りに内容が展開していって、期待通りに面白いです。超絶的な傑作というわけではないけれど、『クイズ$ミリオネア』に目を付けた点といい、そこにスラム育ちの若者の人生を掛け合わせるという着想といい、なかなかの傑作と言っていいと思います。構成も大変わかりやすく出来ていて、誰にでも楽しめる作品になっています(PG-12指定ですが)。

少年時代の主人公がスラムの町の中を走って逃げ惑う場面とか、銃撃の場面とか、要所要所でスタイリッシュな演出処理を施してあって、ああいうところはダニー・ボイルはさすが上手いなと思います。この映画の一つの軸として、主人公とひとりの女性の純愛というのがあるのですが、これが見事に『クイズ$ミリオネア』のルールと融合して、絶妙なクライマックスへ物語を運ぶことになります。この辺りのまとめ方は非常に優れていて、構成の勝利です(脚本はサイモン・ビューフォイ)。それから、『クイズ$ミリオネア』の番組で流れるBGMが、そのまま映画のBGMとしても、緊迫感を誘う効果的な音楽になっていました。

ほとんど文句は無いのですが、唯一、最終問題の回答の選択理由が、ああ。結局それなのかと。もちろん、それはつまり「運命だから」という、この映画のキーワードでもある根拠が、そこにはあるので一応アリなのだけれども、でもやはり観客の立場としては、最後のライフラインであれが残ってあの人が出たんだから、そこは是非とも、あの人が答えを知っていて、それを教えてもらって答えて大団円、という運びが綺麗だなあと思いました。あの人が答えを知っている理由付けは、出来そうな気がするんですよね、主人公がそこまでの答えを知り得たのと同じように。そういう展開にしても、再会出来たことで「運命だから」というのは揺るがないと思うんだけどなあ。監督的には(或いは脚本家的には)もう一山欲しかったのかなあ。僕はもう充分だったけどなあ。

勘の良い人ならわかるように、この映画はちゃんと、誰もが期待するような、良い形の終わり方になっています(その代償となる苦いエピソードもありますが)。あのカタルシスのために、全てが用意されていたという感じです。あと、ボリウッド映画に付き物であるダンスシーンもちゃんとあります。なかなか満足出来た鑑賞でした。
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2009年03月02日

夢の世界へようこそ!(『オズの魔法使』)

今朝、早起きをして『オズの魔法使』を観た。ジュディ・ガーランドの歌う『虹の彼方へ』でおなじみの映画だ。

セピア色のカンザスの舞台から、竜巻に巻き込まれて家ごと吹き飛ばされたドロシーがドアを開けるといきなり画面がカラーになり、鮮やかな幻想の世界が広がるというのは、手法として大きな視覚的効果をもたらしている。1939年の作品だから、当然、現在のようにCGを駆使したものではないのだけれども、書割りを用いた演劇的な画面構成は、まったく鑑賞に違和感を感じさせない(もちろん、ピアノ線やギミックのほころびはすぐに見て取れるが、それは気にならない)。あのレベルの合成による特殊効果は、現在の映画でやればギャグに見えるのかもしれないが、物語に感情移入出来れば最新映画に見慣れた鑑賞者でも充分だまされる。むしろ今観れば新鮮で、ぐいぐい惹き込まれるぐらいだ。

おなじみのカカシ、ブリキ男、ライオンの特殊メイクはもちろんだけど、たとえば小人の国の住人などもなにげに不思議な魅力。サーカスなどから集められたという背の低い芸人や役者、そこに子役が入り交じっているらしく、彼らの演技がいい意味での奇妙な違和感を与えて、ここではない別の世界を感じさせてくれる。
(追記:最初、「子役に年寄りを演じさせ」と書いたのですが、ご指摘をもらって幾つか資料を見ると、どうも身長の低い役者さんが大部分を占めているようです。実際の子役もいないわけではないみたいなんですけど、結局、年寄りを演じているのがどっちだかわかんないので、当該箇所は消しときました。ご指摘ありがとうございます。)

物語的には、正体を現したオズの魔法使いに「名誉」を与えられることでカカシたちが大喜びをする場面があるのだけれども、言っていることの意味はわかるし、展開的にも良いと思うのだが、いささか説明が曖昧なので、もしかしたら「結局肩書きかよ」という誤解を与えかねないんじゃないかという気がした。もちろん、本来の意味はそこにあるのではなくて、むしろ「そういうふうに賞賛されていないだけで、きみたちにはすでにその力があるのだよ」ということを言っているのはわかる。ただ、あそこで具体的な「モノ」に名誉を仮託して与えてしまうと、その「モノ」そのものに価値が移動しているように見えてくるような気がしてしまったのは、僕の気にし過ぎだろうか。あのような「モノ」を与えなくても、たとえばそれまでの旅の道中で彼らが行ってきた勇敢な行動から、彼らに「君はこれこれこういうことをしたね。そんな君にはすでにこれこれこういうものが備わっているのだよ」と金八先生的に言葉で讃えるだけでも良かったのではないかと思った。

その点を除いて、物語的にはテンポよく、退屈せずにとても楽しく鑑賞できた。本来ミュージカルが不得手の僕だが、音楽と歌に彩られたドロシーたちの冒険はスリリングで、心躍らされた。夢のような世界、愉快な仲間との出会いと別れ、そして「やっぱりおうちが一番!」という結末。リアルを生きるのに疲れたとき、クッキーでもつまみながら毛布にくるまって観て、リフレッシュするのにちょうどいい映画だ。
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2008年11月18日

酒とトーキングヘッドの右側に気をつけろ

こう、バイトと稽古でぎゅうぎゅう詰めなスケジュールだと、翌日バイトが休みを控えている前日の夜などは、妙に開放的な気分になって、稽古から帰る道中ずっと「酒、酒、酒」と思ってしまう僕は、何だろう、駄目な人間なのだろうか。

子供の頃、まさか自分がこんなに酒好きになるとは思わなかった。
嘘です。思ってた。高知人の父と母の息子として生まれ、家系のどこを取っても大酒飲みなのだ。いつか自分もそうなるだろうという予測はしていた。
でもジュースも好きなんですよ僕は。コーラとか、酒と同じくらい好きです。
コーラでも、酒と同じくらい楽しめます。両者の価値にそれほど違いは無いです、僕にとって。変かね。
とりあえず今夜は缶チューハイと焼酎2杯ぐらいで止めときました。うん。ほぼシラフだな。水だこんなもんは。

こんだけ時間が無い時期なのだから、時間がある時ぐらいはどうにかモノ書きの時間に充てねばと思うのだけれどもな。書こうかと思うことは幾らでもあるのだが、それを構成としてまとめるのにはある程度の時間と集中力が要るのだ。それを酒で潰してはいかんではないか。と、飲んだ後に気付く。

こないだ久々にビデオで映画を観た。押井守の『トーキングヘッド』と、ゴダールの『右側に気をつけろ』。『トーキングヘッド』は、演劇的手法は好きなのだが、いかんせん、内容が想定の範囲内過ぎた。押井守の作品ってほとんど虚構論が絡んでくるのだが、っていう、そこは共感するんだけど、前面に押し出されるとやや醒めてしまう。やっぱり、虚構論にしても、純粋に物語として描き出すべきだと思った。メタフィクションは、そういう点ではある種、損だ。『右側に気をつけろ』に関していうと、ゴダールは基本的に好きなんだけど、何故か今回はノれなかった。決して悪い映画とは思わなかったから、こっちのテンションに理由があったかもしれない。こっちに色々と受けとめる心のキャパシティが無いと、ゴダールの幾つかの作品は、ノれない。この映画は3つほどのエピソードが同時進行で展開する構造なのだが、ちょっと、観た時のテンション的に、若干疲れてしまった。ゴダール作品で『女は女である』という、あまり有名じゃないけど凄く可愛い映画があるのだが、ああいうのを観たいテンションだった、今思うと。失敗した。

というのを思い出したので書いてみた。あーもう3時か。寝るか。明日からもうちょっと、多少、ストイックな創作モードに戻るか。ある程度ね。ある程度。どの程度かは、自分で決めるぜ。
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2008年08月22日

白昼夢的に『中国女』

あー、やっぱり昨日の歩き疲れのせいか、1日中頭ぼんやり、世界は白昼夢みたいな。

そんな思考状態でゴダールの『中国女』を観ちゃったよ。観るというか眺めたというか。でも、議論の中身を深く追求せずに、映像から流されるものをただ受けとってひたすら観察するというのは、ある意味この映画の正しい見方なのでは、と無理矢理正当化してみる。彼らの理想のためのロジックや行動や挫折も、総じて、後から思えば白昼夢みたいなもんだっただろうしなあ。ほとんど遊戯に近いコラージュを注ぎ込むような手法は好きだし面白いけど、でもこの手の作品なら、大島渚の『日本の夜と霧』みたいな方がいいのかなあ。まあこの2作品を「この手」で括るのはちょっと違うかもしれないけどね。
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2008年08月10日

吉野家行こうと思ったら雨かよ

昨日は夢野久作を読んでいたらいつの間にか眠ってしまった。
起きたら13時過ぎ。なんだかとても損をした気分になる。

予定は無かったので、家でおとなしく『監督・ばんざい!』(監督・脚本・編集:北野武)と『クワイエットルームにようこそ』(原作・脚本・監督:松尾スズキ)を2本続けて観た。『監督・ばんざい!』は短い断片を通した、監督自身の自己言及的な映画なのだが、それらを強引に処理したラストのオチを含めて、莫大な予算を使ってこういうの撮ってもいいポジションにいるというのが羨ましいところ。『クワイエットルームにようこそ』は王道的なドラマのツボを確実に押さえながら、主人公の記憶も徐々に明らかになるという展開で飽きさせず、要所要所で独自センスな笑いもしっかり確保し、モブキャラの操作やカメラアングルも絶妙で非常に完成度が高い。主人公の恋人役の宮藤官九郎とナース役の平岩紙が印象深し。あと、前半にチョコッと出演していた庵野秀明も意外といい演技をしているのが面白かった。
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2008年07月24日

この愛の行く末は(『崖の上のポニョ』)

昨日、あの『崖の上のポニョ』(原作・脚本・監督:宮崎駿)を観てきました。

この映画から真っ先に感じるのは「恋の業」とでも言いましょうか。怖い。と言うと語弊があるかもしれないけれども、いやはや素直な感想を言いましょう。恋って怖いです。特に、ポニョが主人公の宗介に逢いに行く場面が恐ろしい。うわああっ、てなもんで。魚の女の子と5歳の男の子という、これもよく考えてみたら凄い取り合わせですが、プラトニックであるが故に、無垢なる恐ろしさというのも感じます。これが面白い。あの可愛らしい主題歌のイメージとは全然違った印象を受けます。

イマジネーション豊かな海の描写よりも、僕が評価すべきだなと思ったのは宗介と彼の母親であるリサとの親子関係の描写。リサという女性の人物造形はなかなか魅力的で、酔っ払って眠る彼女の寝姿に愛らしさを感じます(僕はね)。あの辺りだけ、妙にトレンディドラマっぽい。夫と光で交信する場面などは、笑いを誘う。

ストーリーは意外と単純で、母なる海だの近づく月だの生死の境だの、いろんな要素が出てくるのだけれども、それらはパーツとして登場してくるという感じで、有機的に融合はあまりしていない。ポニョの父親であるフジモトさんが狂言回し的な役割を果たしているおかげで、どうにか観ている側に繋がって理解出来るという感じ。これ、ある意味ではほとんどフジモトの物語とも言えます。

ラストは一応ハッピーエンドなんだけど、やさぐれた僕などは「その後」を想像してしまい、ともすれば「おいおい宗介、早まったんじゃねえのか?」などと考えしまう僕は薄汚れてしまったのかな。果たして宗介はその後もポニョを愛し続けることが出来るのか。宗介とポニョとの恋愛事情は、むしろここからが(もっというとこの3年後5年後から)が勝負なのではないかという気がします。責任重大だぜ、宗介。

観賞後、観客の子供たちの様子を観察したのだけれども、彼等のリアクションは「ふーん」という顔つき。上映中は要所要所で「ポニョどうしたの?」とかリアクションしていたけど、物語全体を受けての彼等の反応は「ふーん」だったような印象。なまじポニョというキャラクターにハッキリした人格があるために、それにノレるかノレないかみたいな所があったからかもしれないなあ。この物語において、ポニョはマスコットやシンボルでは無く、ヒロインであったのだから。
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2008年05月12日

心の中で大合唱(『タカダワタル的ゼロ』)

新宿で、フォークシンガーである故・高田渡主演のドキュメンタリー映画『タカダワタル的ゼロ』(監督・撮影:白石晃士)を鑑賞。以前に公開された『タカダワタル的』の続編である。ザ・スズナリでのライブ映像と、彼が生前通っていた吉祥寺の焼き鳥屋「いせや」でのインタビュー映像を交えただけの、非常にシンプルな映画であるが、それでいいのだ。この映画を見る目的は、あの高田渡と会い、その歌声を聞くということなのだから。

僕の好きな『スキンシップ・ブルース』や『生活の柄』が、ライブ映像と共に聴くことが出来ただけで、もう満足なのである。眠そうな顔をしながらギターをつま弾き、時々冗談を飛ばす高田渡を見ていると自然とこちらも笑顔になってくる。同じ舞台に立っていた泉谷しげるが、毒づきながらも「この人は国宝だからな」と叫び、ラストの歌にしんみりと聴き入っていたのが印象的だった。

観終わった後、無性に焼き鳥が喰いたくなり、のれんをくぐったのは言うまでもない。
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2008年05月08日

取り戻す旅(『EUREKA』)

東中野の映画館でリバイバル上映されていた、青山真治監督作品『EUREKA』を観た(「エウレカ」ではなく「ユリイカ」と発音します、念のため)。

バスジャック事件から生き残った、元運転手と、乗り合わせていたまだ10代前半の兄妹。あらゆるものを失った3人、そして兄妹の従兄弟で同じく喪失感を持つ若者との共同生活。モノクロームで展開されていくストーリーは、分かりやす過ぎるぐらいに分かりやすい、喪失感の象徴。しかし、この、色彩を失った喪失感の視点に立つのは、観客だ。そしてそのモノクロは、不思議と「色あせた」という印象を与えない。むしろ、非常に単純かつシンプルな「世界」というのを、いわば「原色」として、そして「寓話」として、観察することが可能になっていく。

我々が観察するスクリーンの中で、実験と言おうか、自らも含めたリハビリを試みてみようとするのが役所広司演じる元運転手だ。彼の実験衝動は、失ったものを取り戻したいという、これまた至極シンプルなものだ。そしてそのために、再び皆でバスに乗り、事件のあった場所から旅に出るという展開になるのは、当然なのであろう。映画は実にゆっくりと、そして丁寧に、3時間37分という長い時間で、その過程を描いていく。

言葉を失った兄妹たちの心の闇は、あまりにも純粋だ。そこには「無垢」さえ感じる。ナイフを握ることでしか、その闇を埋められなかった兄の悲しみ。そして兄を想う、妹の気持ち。ラストシーンでの妹のはなむけは、喪失から生まれた無垢の先にある、崇高だったように感じた。見下ろしたあの世界に、彼等が再び戻れることを、モノクロームから色彩を取り戻した観客は、願って止まないだろう。

なお、休憩無しでの3時間37分の上映、後半1時間はずっと尿意を我慢していたことをここに告白しておきます。ここ数年で一番ヤバかった。しかも悪いことに、映画の後半って、川に行ったり海に行ったりするシーンばかりで、もう誘発されて、もう、もう。危なく決壊するところでした。尿意さえ無ければ、長い上映時間は別に苦にならない、良い映画だと思います。あと、役所広司の友人を演じた光石研が、すごく愛すべきキャラクター。
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2007年12月17日

疾走するべき時が来て(『閃光少女』)

音楽のプロモーションビデオというのは、今やもう映像作品として独立して観ることが出来る作品も多いし、クオリティも驚くほど高い。ヘタな映画よりも面白かったりする。

ってことで、今回はプロモを映画鑑賞カテゴリで取り上げる。というのも、東京事変の『閃光少女』のPV(監督:児玉裕一)が大変優れた作品だと思ったので、それを書こうと思って。

まず基本的に『閃光少女』という楽曲自体が、ここ最近の東京事変の作品ではダントツなんじゃないかと思うくらい、良い曲である(少なくとも僕はそう思った)。『キラーチューン』も系統としては似ているかもしれないが、『閃光少女』には見事なカタルシスがある。だから、あのPVが良いというのも「曲が良いからだよ」という意見がある人もいるかもしれない。でも、僕はやはり映像に注目したい。

基本的な内容はシンプルである。二人の少女が、反対方向に走っていくだけ。もちろん、他にも幾つかシーンはあるし、様々な演出がなされているわけだけど、この基本軸のシンプルさが、清潔感を醸し出している。映像全体が純粋な印象を与えている。そして疾走感。それは走るというより、駆けていくという表現がふさわしい。この清潔感と疾走感が、見事に楽曲にマッチしていると思う。

主演の少女二人が、キリッとした表情をしているのもいい。変に喜びや悲しみといった顔をを作ったりせずに、悟りや決意というのを非常に効果的に、あの清廉な表情は見せている。冒頭での、手指や腕を使ったダンスという演出にも非常に良い。大掛かりなダンスよりも数倍インパクトがあるし、深みがある。

優れているのは、作品における、二人のウエイトの置き方のバランスである。絶妙な感じで均等なのである。走る姿は髪の長い方の子が多めだが、最終的には学生服の女の子で終わる。上手い具合に、両方印象に残るように出来ている。しかもそれぞれが、同じ人間のようである(ような印象を与えている)と同時に、違ったストーリーを抱えていることも匂わせている。そこが、解釈を一本化させない、作り手側の意図か。

中央で、互いを我が身の如く見つめ合っていた二人の少女が、何かを決意したかのように、一気に反対方向に駆けていく。もちろん、様々な解釈は可能だが、ともかく何かこう「その時が来た!」という、通過儀礼のような印象は、おそらく多くの人が持つはずだ。
楽曲を引き立たせるという、プロモの大前提をハイレベルでクリアしながら、映像詩としても優れている作品になっていると思う。凝ったプロモは沢山あるが、このようなシンプルさでもこんだけ惹き付けることが出来るんだな、と感心した。
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2007年12月04日

ぬけがらが再び魂と出逢った時(『さすらい』)

今回取り上げるのはミケランジェロ・アントニオーニ監督作品『さすらい』であるが、これは原題が『 Il grido』で、僕はイタリア語よく分かんないんだけど辞書で推測するに多分『叫び』とか「絶叫』とかそういう意味で、内容としては原題の方がよく当てはまっている(僕が好きなアントニオーニの映画『欲望』も、圧倒的に邦題によって原題の『Blowup』が持つ意味が消えてしまっている)。

アントニオーニのどこが良いのかと訊かれたら、多くの人がおそらくそう答えるように僕も「不毛さ」や「虚無感」というキーワードを使う。「暗い」とか「地味」とかじゃなく「不毛」という言葉がぴったりだ。砂漠みたい。だから観る前はとても気が重い。しかし観始めると、なんだかんだで引き込まれて、結局最後まで見入ってしまう。そこはやはりテクニックである。実際、構成にしてもとても緻密に出来ている。一見すると、会話にしても人物の行動にしても、その場その場で行き当たりばったりで喋ったり動いたりしているようにしか見えないんだけど、それはまさしくリアルな人間の姿であり、最終的に作品全体を思い返せば、ピタリピタリと、まるでパズルのように一つも無駄なシーンが無いのに驚かされる。

『さすらい』における主人公のさすらいは、いわば一種の「逆幽体離脱」「逆臨死体験」のようなものだったのではないかと、僕には思えるのである。何故か「もう愛せない」と内縁の妻状態だった女性に突き放された主人公が(この辺りは前にも取り上げたゴダールの『軽蔑』と比較すると面白いかもしれない)娘と共に放浪の旅に出るがやはり満たされない。モサい男なのだが何故か女性にモテて、何人かに言いよられるけど(うらやましい)どうもそんな気になれない。それは、このさすらいの旅が「逆幽体離脱」みたいなもので、魂はずっとあの故郷に置いてきたまま、ぬけがらの体だけで旅をしていたからだと思う。だから旅の目的としては「新たな魂があるのではないか」という希望を抱いてそれを探し求めることにあったのだけれども、結局見つからない、という部分に、この映画の不毛があるのだと思う。

そして故郷に帰るが、そこにも自分の居場所は無かった(故郷の状態そのものも変わっていた)。かつて自分の勤めていた工場に戻り(ここは冒頭のシーンが伏線になっており、構成の巧みさがうかがえる)、そこで自分の元の魂を体に戻したことで、最終的に自分の人生そのものの不毛さをも気付いてしまったことで、ああいうラストになったことは必然なのである。

原題の示す「叫び」は、当然ラストシーンであの内縁の妻が発する叫びでもあるが、同時に彼自身の心の叫びである。静かな映画であるが、彼は旅の間、ずっと叫び続けていたのだ。その叫びは大変悲痛で、虚無感に満ちていた。
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2007年11月23日

強過ぎるにも程がある(『沈黙の激突』)

スティーヴン・セガール主演の『沈黙の激突』を、わざわざ銀座シネパトスまで行って観た。テレビでおなじみの、あの『沈黙』シリーズである。

化学薬品によって超人的な力を持った敵に、セガール演じる軍の司令官が立ち向かうというのがストーリーである。だが、こう言っちゃなんだが、ストーリーなんか二の次である。この映画の目的はただ一つ、それは「セガールがいかに無敵か」を描くことだ。

だから、仲間を殺されたことで闘争の炎がメラメラ燃え上がり、そしていかに敵が強いかという描写がなされれば、もうそれでいい。あとは、その敵を完膚なきまでに叩きのめすセガールの快進撃が始まるのである。

快進撃、というより、ホントにもう、あり得ないぐらい強過ぎる。戦いにおいて、他の仲間や兵士はぶっ飛ばされてたり壁に叩き付けられたりしてほとんど全員死んでいるのに、セガールはかすり傷一つ負わない。アクション映画でお約束であるはずの、主人公がピンチになるというシーンもほぼ皆無。一瞬攻撃されても、無傷ですぐに復活。戦い方も凄くて、最初は銃を持っていたくせに、いざ戦闘の前になると何故かそれを放置し、合気道のような拳法でなんか両手をこねくり回したかと思うと、手首に装着したナイフで相手を一気にグサリ。さらに容赦なく無表情のまま死ぬまで攻撃。それで試合終了。その間、わずか数分。しかも驚くべきことに、ボスが死んだら、もう何の後日談もエピローグも無く、エンドロールが流れて映画が終わるのである。えええええええっ!!!???

セガールは映画史上最強の主人公だろう。彼は絶対に負けない。ブルース・ウィリスやシュワちゃんなんて甘い甘い。あんな傷だらけになるような勝ち方じゃ駄目なのだ。セガールはもう、笑えてくるぐらい強い。中盤までの「前フリ」を観てて眠気に襲われたとしても、ラストの「オチ」であるセガールの戦いぶりには、覚醒せざるを得ない。手に汗握る暇もなく、あっという間に彼は敵を壊滅させてくれる。その圧倒的な強さを前にしては、ストーリーがどうだとか設定がどうだとかをツッコむ気持ちなんて、もはや野暮でしか無いのである。
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2007年11月16日

そこがオチか!(『ストランペット』)

『ストランペット』は、あの『トレインスポッティング』のダニー・ボイル監督作品。

ポエトリーリーディングが生き甲斐のストレイマンと、ギターが生き甲斐のストランペット(ストレイマンの飼い犬の名前「売春婦」を流用)が出会い、そのコラボに感激したノックオフがマネージャーを買って出て、世に出ようとする物語。中盤時点でほぼラストまで克明に展開が分かるストーリー構成で、まあラストまで物語が読めるぶん、途中のダレ場などはかったるくて早送りをしたくなってしまったりもしたんだけれども。

詩を扱った作品は、例えば『8マイル』もそうだが、英語が母国語でない僕には、どの程度イカした詩なのかというのがイマイチ分からないのがもどかしい。韻とかさ、そういうので「すげえ!」っていうのあるじゃない。カット割りやカメラワークで様々な技巧を凝らした演出をしているのはダニー・ボイルならではだが、その点はやはり『トレインスポッティング』には及ばない。いや、あんまり過去の作品を持ってきてコメントするのは本当は良くないとは思うんだけどね。でも、あれはあまりにも優れた映画だから、ついつい引き合いに出したくなってしまう。

とりあえず、ストレイマン達を散々邪険に扱っていたレコード会社のお偉いさんが、ラストのライブの時に誰よりも熱狂して飛び跳ねていたのに爆笑した。あれはちょっとツボにハマった。そうか、それまでのあれこれはあのオチのための前フリだったのか。
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2007年10月31日

助走の果てに(『ハザード』)

園子温は詩人で映像作家で、最近では『時効警察』シリーズに携わったことで知られている。そんな園監督の『ハザード』という映画を最近観た。

日本を「眠すぎるけど眠れない国」と表現したのはなかなか含蓄がある。まあ、僕自身は日本は面白い国だと思うのだが、そんな眠たい国から刺激を求めてニューヨークに単身渡る青年がいつも空想する、滑走路の夢(飛び立ちたい!)は、僕を含めた同世代人にはよく「分かる」風景だと思う。飛ぶには助走が要る。この映画においては、主人公がニューヨークで出逢った仲間達と過ごした時間がまさに、主人公が自己変革するための助走であったのだろう。そしてその助走を経て飛び立った主人公の目に映った故郷の日本は、ニューヨーク以上に刺激的な国になっていたのではなかろうか。ていうか、日本だけではなく、世界全てが。そのとき「眠すぎるけど眠れな」かったのはかつての自分自身であった、ということに気付くのであろう。

主人公シンがニューヨークで出逢うリーを演じたジェイ・ウエストが良いと思った。ベストキャスティングであろう。ウォンとのからみはもっと掘り下げた物を観たかった気もする。主人公がニューヨークでつるむのが、結局日本人や日本人のハーフであったというのはどうなのだろうという感覚が無いでも無い。ただ、連帯感が絵的に分かりやすくなっている(いいのか悪いのか分からないけど)という効果はある。ともかく、危険な雰囲気を映像に取り込みたいからと言って、わざわざニューヨークの最も治安の悪い危険な場所を選んでロケを敢行したという園監督のこだわり方が好きだ。
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2007年10月11日

冒涜冒涜、また冒涜(『大脳分裂』)

『大脳分裂』(脚本・監督・編集:カリム・ハッセン)は、「左脳が破壊されて理性が無くなったら、もうそれはそれは、もんのすげえ、もんのすげえ残酷なこと考えよるよ、人間っちうもんは」というのを映像化した作品。

何故左脳がいきなり破壊されてしまったのか、そんなことを問うのは野暮というもの。とにかく破壊されてしまったモノはしょうがない。フロイトさんみたいな言い方すれば、自我を吹っ飛ばして超自我をシカトして、エスがドボボボー、っていう状態を想定すれば良いのかね。そんでもって血もドボボボー、な映画。主に「生命誕生」と「神」について、監督の思うままに冒涜しまくっており、内容はそれ以上でもそれ以下でもない。冒涜そのものが目的の映画だから、カナダ政府から正式に発禁という処分を受けたというのも、作品にハクがついたようなもんである。スプラッタな感じは、僕なんかは大いに笑いながら観てしまうのだけれども、確かに後半の神を冒涜するような描写は、信心深い人が観たらリアルにショック死するんじゃないかと。でも、考えようと思えば、人間なんていうのは幾らでもこんなことを想像出来てしまう。そういう意味では、世の中の何よりも人間の想像力が一番残酷よ、という監督の主張も頷ける。

子供の頃に観てしまったらトラウマになりそうな作品。映画としてB級はB級なんだけれども、特殊効果とか意外と凝っていて、美術的にはそれなりに見応えもあったりする。中盤の、なんていうのかな、「世界とセックスしてみました」みたいな場面は、前衛舞踏集団のパフォーマンスみたいで面白い。音楽も妙に荘厳で、格調があったりしちゃうし。やってることを素に戻って観てると、笑えてくるんだけれども。
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