彼の妻である智恵子が死の床でがりりと噛んだように、
死の床でも無い、ただ憂鬱なだけの僕は、レモンを齧ってみたんですが、
智恵子の意識を正常にしたという、その酸っぱさは、
僕にとってはそれはそのまま、情けないほどにただ酸っぱいだけで、
光太郎みたいに詩的な昇華など出来なくて、
俗な僕はもう、単純に酸っぱさに驚いて、
思わずレモンを窓から夜空へと放り投げたんです。
そしたらそのレモンは浮かんだまま、そのまま月になりました。
僕の齧り跡がついたまま、三日月になりました。
あれから何日も立ちますが、相変わらず月は僕の投げたレモンのままで、
くるくると回転して裏返ったり横向いたりして、満ちたり欠けたりした姿を見せていて、
すずしく光っているんです。
そんなレモンの月を眺めながらふと思いました。
人は死んだら星になるというけれど、
だとするならば高村智恵子も、そして今であれば光太郎も、
同じあの夜空の星のどれかであるのだろうかと、
僕の亡き母も、誰かの亡き家族も、亡き恋人も、亡き友人も、亡き見知らぬ人も、
みんなあの星空のどれかであるのだろうかと、ふと思ったんですよ。
じゃあ、と僕は小さく願いました、
星々が浮かんでいるあの空に、
いつまでも僕の齧ったレモンが置かれ続けて、
そこから香る「トパァズ色の香気」によって、
いつまでも彼らが美しく輝き続けていられることを。
そうすればその星の雫は、きっと地上の僕らのもとへ、
「天のものなるレモンの汁」のように落ちてきてくれるだろう、
それは僕らの中に深く深く染み込んでくれるだろう、
そして幾人分もの命を記憶として僕らに与えてくれることで、
憂鬱なる僕らの意識を正常にしてくれるだろう。
機関がそれなりに止まってしまった彼らと、
かろうじてそれなりにまだ動いている僕ら。
たったそれだけの違いです。
どちらも、いつまでも、同じ世界に包まれているのです。
でしょ? 智恵子さん、光太郎さん。
今夜も僕の齧ったレモンは、夜空で美しく、すずしく光っている。
それを眺めながら僕の心も、何だかすずしく穏やかだ。
※幾つかのフレーズは高村光太郎の『レモン哀歌』より引用しました。(作者)
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